体験談

【パーキンソン病】大好きだったおばあちゃんが死んだ日、僕は心底嬉しかった

僕の家は6人家族でした

おじちゃんおばあちゃんって、凄く遠いところに住んでいて、中々会う機会がないという方も多いのではないかと思います。
僕の家はちょっと特殊で、父方の祖父母が同じマンションで暮らしていました。二人は元々、父の故郷でもある北陸の方で二人で暮らしていたのですが、父が「そろそろ心配だから近くで面倒を見たい」と申し出たことで、家と土地を引き払い、僕たちと同じマンションに引っ越してきたのです。部屋は別とはいえ、今までは車で5時間かけないと会えなかったおじいちゃんとおばあちゃんが徒歩2分の部屋に来たわけですから、当時小学一年生だった僕も2つ下の弟も、凄く喜びました。

両親が共働きだったので、祖父母は自分達の家事に加えて、僕たちの家の分の家事(洗濯物の取り入れやキッチンの洗い物)もやってくれていました。僕と弟は学校が終わると祖父母の家に帰り、4人で晩御飯を食べ、寝るタイミングで家に戻る生活をしていました。祖母は本当に穏やかで優しく、「○○ちゃんは本当に凄いね、偉いね。」と何でも誉めてくれたので、僕も弟もそんな祖母が大好きでした。(もちろん、祖父も)

中学校、高校と学年が上がるにつれて部活動で帰りが遅くなり、夕食も自宅で食べることが多くなったので、祖父母と過ごす時間はかなり少なくなりましたが、それでも毎週何回かは顔を合わせていましたし、その度に部活や勉強のことを話して、祖父も祖母もそれを嬉しそうに聞いてくれていました。

祖母に起きた異変

僕が高校三年生になってしばらくたったある日、祖母が部屋の中で転倒して足を骨折してしまいました。その時は「部屋の中で転ぶなんて、おばあちゃんも年なのかな」なんて軽く考えていました。お見舞いにいくと、祖母は「○○ちゃんの顔を見ると元気が出るわぁ」と明るい笑顔で出迎えてくれるので、こっちまで嬉しくなり、1時間近く病室に居て話し込むこともしばしばでした。

1ヶ月半ほど経ち、祖母は退院したのですが、退院後すぐに転倒してまた足の骨を折ってしまいました。これはいよいよおかしいと言う話になり、精密検査をすることになったのですが、事態は想像していた以上に軽いものではありませんでいた。

祖母はパーキンソン病だった

パーキンソン病とはざっくり言うと、「体が動かしづらくなる」病気です。
高齢者に多くみられ、主な症状として

・体の動きが遅くなる
・手足が震える
・バランスが取れなくなる

などがあります。

参考)日本メジフィックス「パーキンソン病の診断と治療って?」

祖母は独力で生活を行うことが困難になったので、退院後は自宅で介護士の補助を受けながら生活するのか、介護施設に入るかしかありません。
祖母は施設に入ることを強く拒否したようで、両親もその意思を尊重し、退院と同時に祖父母の家に介護用のベット(レンタル?)が運び込まれました。
ただ祖母は寝たきりにこそなってしまいましたが、まだ会話も食事もできる状態でしたので、受験勉強の合間にお見舞いに行っては、介護士の方とした会話や昔の思い出話をうんうんとうなずきながら聞いていました。「〇〇ちゃんの合格を見るまでは死ねないね」と言われたときは、僕も涙を拭いながら「絶対に現役で合格するよ」と約束しました。この約束が受験勉強のモチベーションの一つになったことは確かですし、その後、僕が第一志望の大学に合格した時には泣いて喜んでくれたので、「少しは元気づけられたかな」なんて思ったりもしました。

悪化する病状、施設への転入


しかし祖母の病状は少しづつ悪化し、更に介護を手伝っていた祖父も疲れから体調を崩してしまったので、祖母はとうとう施設に入ることになりました。
当時僕は大学に入学し下宿を始めたので、お見舞いの機会は2か月に1回くらいになってしまいました。病状の悪化と施設での生活のストレスから食事を拒否し、点滴や飲料で栄養を摂取するようになった祖母は、会う度に目に見えてやせ細っていきました。「しっかり食べないとだめだよ」と言ってもそっぽを向いてしまいますし、祖母の口から出るのは施設(+働く人)の悪口と、「本当に辛い」「さみしい」「家に帰りたい」ということばかりでした。
この頃から、お見舞いに行くのが少しづつ億劫になってきました。祖母に全く罪はないのですが、ネガティブな言葉をただただ浴び続ける時間というのは、辛いものです。

その後、病気の進行と体力の低下により、祖母は会話をすることも難しい状態になってしまいました。2か月だったお見舞いの間隔も3か月4か月と延びていき、1回あたりの滞在時間も15分ほどになりました。

当事者も家族もみんな辛い


祖母がそんな状態になっても、父は毎日仕事前と仕事帰りに施設に寄っていました。実の親だから、という義務感がそうさせていたのでしょうか。僕からすればそんな父の方が体を壊してしまわないか心配でしょうがなかったです。温厚な父も、心身の疲労でイライラしているのか、ちょっとしたことで家族と口喧嘩になる場面が増えてきました。
またある日母に、祖母の施設にかかっている金額を聞いた時には心底驚きました。毎月、約15万円です。祖父母は年金も受給できていなかったので、全て父が負担していました。
「そんな大金を払って、この誰も幸せではない状態を維持しているのか」と絶望に近い感情が心を占めました。

誤解を恐れず言えば、この時の僕は確かにこう思っていました。

「おばあちゃん、早く死んでくれないかな」

祖母の死にホッとした自分


その日は突然やってきました。介護施設に入って3年目の秋。
知らせを聞いて施設に駆け付けると、確かに祖母は亡くなってしました。
祖母の体は元々極限までやせ細っていたので、見ためにはほとんど違いはなかったですが、魂が抜けた分だけ、ほんの数グラム軽くなっているように見えました。

悲しいという感情は一切ありませんでした。むしろ逆です。終わったんだという安堵。家族が一人亡くなったのに、喪失感がまるでないんです。祖母が死んで僕は本当に嬉しかったんです。
祖母は辛い寝たきりの生活から解放されて本当に良かった。
家族(特に父)の肉体的、精神的、金銭的な負担がなくなって本当に良かった。

葬儀・通夜の時に出た涙は、嬉し泣きだったんでしょうか。流石にそんなわけはないと信じたいですが。



家族への意思表示を

祖母の死を通じて、僕は終末医療や延命治療についてすごく考えさせられました。

葬儀が終わって数日後、母に告げました。

「もし俺がおばあちゃんみたいな状態になってしまったら、延命治療はしないでほしい。」

「それはこっちのセリフや。変な気を遣わんと、一思いに見送ってちょうだいよ(笑)」


自分や自分の家族がいつ寝たきりになるかなんて、誰にも分りません。明日交通事故にあうかもしれないし、突然大きな病気になるかもしれない。昨日まで元気だったのに、体を動かせず、食事もできず、話もできない状態になるかもしれない。そんな時、もう自分では意思を伝えられなくなった当事者の代わりに、家族が医師や病院と今後の方針を決めなくてはなりません。回復の可能性を信じて、必死に命を繋ぎとめるのか、全てを受け入れ、大切な人の命の灯を消すことを選ぶのか。どちらも非常に重い決断になるのは間違いありません。

これを読んでくださった皆さんも、延命治療がいるのかどうか、臓器の提供はするのかどうかなど、一度機会を設けてご家族と話合ってみてほしいなと思います。